ラファエロ・モネオ×槇文彦
少し前アイカ工業のデザインセミナーにいってきた。毎年恒例で行われているやつだが、去年のジャン・ヌーベルは抽選にもれ断念。ひそかに楽しみにしていた。
しかし気になるのがこうした公演の場合、多くが苦労話で終わることだ。
ここのディテールに苦労しました、とかクライアントとの合意形成に骨を折りました、とかそんなことは別にどうだっていいと思う。特に某超有名建築家Aさんの講演会には何度かいったことがあるがすべて苦労話で終わった。
本当に聞きたいのは、その建築家が現在どんなことを考え、どのように世界をとらえているか、建築に対しどういった理論をもっているのか。そういったことが多くの人が聞きたいと思っていることだろう。
しかし、「そんなことしたらネタバレやん」とか「模倣される」とかいった意見がでてきそうだ。しかし、いったいそれのどこが悪いのだろうか?
ネタバレとは布教活動のようなモノだし、模倣とは共感の一種だ。
情報はまわらなければ意味がない。情報がまわらなければ未来は創れない。
話しがそれた。
当の講演会はというと、モネオ氏のプレゼンテーションはとてもすばらしいものであった。同時通訳のコトバを通しても氏がなにを伝えようとしているかとてもよくわかった。
氏によれば、もちろん僕の解釈ではあるが、建築とは歴史上の瞬間の反映であり、我々建築家は建築を通して過去への理解が現在に共有されたものを読み取らなければならない。例えば宗教的必然をカタチにしたのがゴシックであり、資本主義社会の要望を受け入れたのがマンハッタンである(これはコールハースの引用かな)。
しかし現代においては、現在が今後の未来の決定期だと信じられているのに、建築と社会的な状況が反映されていない。
では現在の社会的反映とはどのようなものか。氏は「コミュニケーション」「生物学として本能的状況」「複雑性・多様性」などといったキーワードを挙げていた。
そうしたギャップはますます深まり、今後の未来に続くものが生まれてこない。
たしかに現代を反映しえている建築はまだうまれてきていないように思う。近代から現代において何が変化したか?それはいうまでもなく「情報」である。
情報は私たちの関係性を大きく変化させた。しかも劇的にである。そうした状況が建築に追いついていないのかもしれないが、建築の分野におけるコンピューターの利用はまだまだ限られた分野になっている。日本ではそれが顕著だ。
私たちの身体は情報やテクノロジーによってコミュニケーションや行動に大きな変化を受けた。しかし、建築はそれらの変化に鈍感なままである。
この場合の前に進む方法はは2つ。
テクノロジーを受け入れ、時代に敏感に神経をすり減らし、つねに新たなものへと変化させていくか。
その変化に限りなく鈍感を保つことで身体性、文化性を維持するか。
前者は伊藤豊雄のような先鋭的建築家、モネオ氏は後者に属すると思う。
最近思うのはこれら二つの要因は決して不可分ではなく、融合することが可能ではないか?ということ。陳腐なコトバになるが「歴史・文化とテクノロジーの融合」である。
これは修論にならんだろうか?うーむとても難解…。
槇文彦氏のプレゼンはいわいる苦労話だったので省略させてもらう。そういえば今回の公演のテーマは「デザインプロセス」だったと思うが、対談の最後は「東京カオス論」になっていたなぁ。
しかし気になるのがこうした公演の場合、多くが苦労話で終わることだ。
ここのディテールに苦労しました、とかクライアントとの合意形成に骨を折りました、とかそんなことは別にどうだっていいと思う。特に某超有名建築家Aさんの講演会には何度かいったことがあるがすべて苦労話で終わった。
本当に聞きたいのは、その建築家が現在どんなことを考え、どのように世界をとらえているか、建築に対しどういった理論をもっているのか。そういったことが多くの人が聞きたいと思っていることだろう。
しかし、「そんなことしたらネタバレやん」とか「模倣される」とかいった意見がでてきそうだ。しかし、いったいそれのどこが悪いのだろうか?
ネタバレとは布教活動のようなモノだし、模倣とは共感の一種だ。
情報はまわらなければ意味がない。情報がまわらなければ未来は創れない。
話しがそれた。
当の講演会はというと、モネオ氏のプレゼンテーションはとてもすばらしいものであった。同時通訳のコトバを通しても氏がなにを伝えようとしているかとてもよくわかった。
氏によれば、もちろん僕の解釈ではあるが、建築とは歴史上の瞬間の反映であり、我々建築家は建築を通して過去への理解が現在に共有されたものを読み取らなければならない。例えば宗教的必然をカタチにしたのがゴシックであり、資本主義社会の要望を受け入れたのがマンハッタンである(これはコールハースの引用かな)。
しかし現代においては、現在が今後の未来の決定期だと信じられているのに、建築と社会的な状況が反映されていない。
では現在の社会的反映とはどのようなものか。氏は「コミュニケーション」「生物学として本能的状況」「複雑性・多様性」などといったキーワードを挙げていた。
そうしたギャップはますます深まり、今後の未来に続くものが生まれてこない。
たしかに現代を反映しえている建築はまだうまれてきていないように思う。近代から現代において何が変化したか?それはいうまでもなく「情報」である。
情報は私たちの関係性を大きく変化させた。しかも劇的にである。そうした状況が建築に追いついていないのかもしれないが、建築の分野におけるコンピューターの利用はまだまだ限られた分野になっている。日本ではそれが顕著だ。
私たちの身体は情報やテクノロジーによってコミュニケーションや行動に大きな変化を受けた。しかし、建築はそれらの変化に鈍感なままである。
この場合の前に進む方法はは2つ。
テクノロジーを受け入れ、時代に敏感に神経をすり減らし、つねに新たなものへと変化させていくか。
その変化に限りなく鈍感を保つことで身体性、文化性を維持するか。
前者は伊藤豊雄のような先鋭的建築家、モネオ氏は後者に属すると思う。
最近思うのはこれら二つの要因は決して不可分ではなく、融合することが可能ではないか?ということ。陳腐なコトバになるが「歴史・文化とテクノロジーの融合」である。
これは修論にならんだろうか?うーむとても難解…。
槇文彦氏のプレゼンはいわいる苦労話だったので省略させてもらう。そういえば今回の公演のテーマは「デザインプロセス」だったと思うが、対談の最後は「東京カオス論」になっていたなぁ。
by haruya95
| 2007-07-15 23:24
| 建築